人類の永遠の願望である、不老不死と回春を達すべく、歴史上の王や英雄がその強大な権力を行使し、巨大な富を犠牲にしてまで秘薬を求めて参りましたが、生あるものの消滅・死という宿命から一人として逃れることはできませんでした。
高麗人蔘はまさにこうした願望の象徴として、又実際の経験と効用により出現し、中国の医学文献に初めて登場したのが、今から約2,000年前、中国前漢時代の史游の著「急就章」です。
一説によると不老不死を願う秦の始皇帝も煎じて使っていたとも言われています。
神秘の霊薬、高麗人蔘が日本に渡ったきたという記録としては、天平11年(739年)に渤海の文王が国使とともに高麗人蔘30斤を聖武天皇に贈ったのが最初になります。奈良の正倉院には当時に送られた人蔘が今も大切に保管されています。
その後も、朝鮮半島からは、ほぼ継続して日本に高麗人蔘が贈られてきます。足利時代、室町幕府にやってくる朝鮮の使節団は高麗人蔘を「国交贈品」として持ってきて、日本は「国交回礼品」として銀などで報いました。

豊臣秀吉の朝鮮出兵は、朝鮮の磁器文化や高麗人蔘の栽培技術を持ち帰ることが目的であったとも言われており、秀吉の部下であった黒田官兵衛が高麗人蔘栽培に挑戦して失敗したと言われています。
日本における高麗人蔘の栽培は徳川家康も手がけていましたが、その栽培が難しいため頓挫いしていました。特に高麗人蔘の種子の発芽の難しさが道を険しいものにしました。しかし、八代将軍徳川吉宗の時代享保14年(1729年)に日光薬草園にて初めて高麗人蔘の栽培に成功しました。

栽培が可能になると幕府は高麗人蔘の栽培方法を公開し、各藩に人蔘の苗や種を配給して高麗人蔘の栽培を奨励しました。江戸時代後半には野州、松江、会津などが高麗人参栽培の中心地となりました。
幕府から種や苗をいただいて栽培を奨励されたため「オタネニンジン」とも呼ばれています。
長野県では、当時志賀村(現在の佐久市)の篤農家、神津孝太郎の辛苦と努力によって栽培が大きく発展し、長野県東信地域は全国三大産地と言われるまでに栽培が盛んに行われました。
江戸時代末期から明治・昭和初期までは主に金銀に代わる輸出品として栽培されていました。しかし、現在では、6年の歳月がかかることと連作が難しかったこと。栽培農家の高齢化などにより栽培量が激減しており、日本の消費量の約97%が中国からの輸入となっています。